Introduction ー イタリアワイン の 歴 史

イタリアワインの歴史

イタリアワインの歴史-目次

1000年の長い歴史のある古代ローマは、その源をギリシャとエストニアに持つワインとワイン文化の華を咲かせた。

イタリアは、そのローマ帝国崩壊後近世まで、フランスのような中央集権的な統一国家をこそ持たなかったが、ローマ・カトリック教会の基に、各地に自立的な都市国家を成立・発展させ、中世後期にはルネサンスの華を咲かせた。

その文化はもとより、ワインを始めとするイタリアの交易は地中海を独占しヨーロッパ中に広がって随一だった。
シエクスピアが舞台を自国の英国ではなくイタリアに求め「ヴェニスの商人」を書いたことでもその活発な商業活動が伺える。

しかし、新大陸・新航路の発見を契機に、ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェなどの自治都市を衰退させ、フランス、スペイン、オーストリアなどの外国干渉やそれに続く劣悪なスペイン支配を受け、北方諸国の市場をオランダに奪われる。イタリアのワイン産業も、ルネサンスの輝きと共に、その勢いを完全に無くし、イタリア統一を経て、20世紀になるまで、ヨーロッパの表舞台に登場することはなかった。

ここでは、その歴史を概観し、ワインとワイン文化の足跡をたどることにした。

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目次・概要

 

1. ワインの起源とワイン文化
古代ギリシャ & ディオニュソス、古代ローマ & 「ポンペイ」
2. 概観・古代ローマ
「エトルリア文化とペルージャ」「サビーニの女たち」「奴隷と市民権」「カエサルのガリア支配」「ローマ人の美食」「パントサーカス」「古代ローマのキリスト教」「帝政末期のゲルマン出身者」。
3. ゲルマン民族大移動
ローマ帝国の崩壊とゲルマン部族による支配&教会組織と法王権の確立。「カノッサの屈辱」。
4. ワイン文化を引き継いだ司教と修道院
ローマ文化・文明衰退・変質期の葡萄栽培。
5. シチリア王国の誕生と変遷
中世のシチリアと南イタリア。「皇帝フリードリヒ2世とそのパレルモの宮廷」。
6. 十字軍と商業都市の興隆
自治都市(コムーネ)の成立と十字軍の影響。法王権の拡大。
7. 中世のポー河流域と「ミラノ」
ランコバルト王国からヴィスコンティ家のミラノまで。
8. ルネサンス期の農村
農村社会の変化と南北イタリアの農業形態の違い。
9. ルネサンス(14~15世紀)
ルネッサンスと自治都市(コムーネ)の君主制。
10. ヴェニスの商人とワイン
ルネサンス期のヴェネツィアの商業活動とワイン交易。
11. ウルビーノとサン・マリーノ共和国
欧州随一の宮廷を持ったウルビーノとそれを支えた産業&世界一小さな共和国「サン・マリーノ共和国」
12. イタリア経済・文化の衰退と外国干渉
新大陸発見による通商路の変化とイタリアの商業衰退。外国の干渉・支配。
13. サルデーニャ王国と統一イタリア
統一イタリア共和国の設立。カヴールとガリバルディの活躍。
14. 「質より量」の葡萄栽培
近世以降、政治・経済の変動がもたらしたイタリアワイン産業と統一イタリア創建に貢献した3人の指導者と葡萄栽培。「統一イタリア初代首相・カブールとバローロ」「りカソリ男爵とキャンティ」「ガリバルディとうどんこ病」。

 

皇帝派と教皇派
この時代、各地の都市や領主は、それぞれ皇帝派(ギペッリーニ)と教皇派(グェルフィ)に分かれて激しく争うことになる。「ギペッリーニ」と言う言葉は、フリードリッヒのホーエンシュタウフェン家の城砦・ヴァイプリンゲンのイタリア訛りで、「グェルフィ」は、常に対立してきたドイツの有力なヴェルフェン家に由来する。両家の対立抗争がイタリアの持ち込まれ、やがて教皇とフリードリヒ2世が激しく争うようになって、大体1230年年頃から「ギベツリーニ」即ち皇帝派、{グェルフィ」即ち教皇派と言うことになる。

北イタリアの教皇派都市は、第2次ロンバルディア同盟(1226年)を結んで皇帝に対抗したが、フリードリヒは1237年にこれを軍事的に圧倒し屈服させた。更に、彼は、北・中部イタリア各地に皇帝代官を派遣し、各都市の首長(ポデスケ)の選出を監督、あるいは直接に任命した。ヴェローナのように、皇帝と同盟関係を結び著しく勢力を拡大した都市もあるが、この時代は、多くの自治都市(コムーネ)の主権が最も制約を受けた時期と言える。

これに対し、教皇・グレゴリウス9世は、ローマに公会議を開いてフリードリヒを皇帝の座から追うことを企てたが、フランス・イギリスの大司教・司教たちの船が、フリードリヒ側に捕えられ、全員が捕虜となってこの企ても失敗した(1241年)。このため次の教皇・インノケンティウス4世は、1245年、リヨンで公会議を開き、ついに皇帝の廃位を宣言した。

フリードリヒは、なおもドイツ.イタリアで戦闘を続けたが、1250年12月、南イタリアのフィオレンティーノ城(現在のフォッジャ県ルチェーラの近く)で病死した。 フリードリヒⅡ死後、近世末までイタリアの統一国家建設の政治勢力は生まれない。
フリードリヒ死後の大混乱の南イタリア
フリードリヒ死後、南イタリアは大混乱が生じた。
1266年、皇帝と対立していた教皇・アレクサンデル4世の意を受けた仏王・ルイ3世の息子アンジュー伯・シャルルが遠征し、南イタリアを制圧する。 しかし、1288年に起きるシチリア島民の大反乱(シチリアの晩鐘)によって、シチリア島を失い、首都をナポリに移し、「ナポリ王国」として、以後2世紀にわたって、フランスのアンジュー家による南イタリアの支配が続く。

一方、シチリア本島は、この反乱に際してシチリアの貴族がアラゴン王ペドロ3世に出兵を求めたため、アラコン王家が手中に収めた。更に、1442年には、後継者のいない「ナポリ王国」の女王の養子に、アラコン王のアルフォンソ5世の縁組が成立、「ナポリ王国」の相続権をも獲得する。以後、南イタリアは総て、スペインの統治が18世紀まで続くことになる

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