ドイツワインの歴史ー5

宗教改革と30年戦争

ザクゼンのフリードリヒ賢公とマルティン・ルター

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1502年、ザクゼンのフリードリヒ賢公は、ヴィッテンベルグに人文主義の新しい大学を創設した。
この新しい大学は、創設6年後に赴任した若い聖書学教授・マルティン・ルターによって、全ヨーロッパにその名をとどろかせる。

1517年、ルターによって、教会の発行する免罪符の販売に抗議する「95か条の提題」が出された。宗教改革の発端である。
以前からの教皇や司教の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満がピークに達し、同時発生的に各地にこの改革運動が始まる。チューリッヒのツヴィングリ、ジュネーヴのカルヴィンなどである。

こう言う変革運動は、一旦動きだすと先へ先へと過激化して行く。宗教戦争と言う最も悲惨な戦争を17世紀半ばまで各地で繰り返しながら、プロテスタントと呼ばれる新教は全ヨーロッパに広がっていった。(この時代生まれ、カトリック側の対抗運動の旗手となったのが、騎士修道会のイエズス会)
ルター派は、ドイツでは北ドイツ一帯、更に北ヨーロッパ・スカンジナヴィア(デンマークとスウェーデン)に広がって行った。はるか北東のドイツ騎士団国家もルター派に改宗して「プロイセン公国」となった。

カルヴァン派は、フランスに入ってユグノー、スコットランドでは長老派、イングランドではピューリタンとなる。ドイツでは選帝侯国の一つのライン宮中伯領(プファルツ)が受け入れている。
ヨーロッパ的に見るとカトリックの牙城はイタリアとスペイン。フランスもユグノー戦争という動乱を経て、結局カトリックの国であり続ける。ドイツではバイエルンを中心とする南ドイツがカトリックに留まる。(ルター派のヴュルテンベルクを除く)

宗教改革という運動の中で、小国に分裂していたドイツの領邦君主の多くは、思うに任せない司教などの持つ伸張する俗権力を抑えるべくプロテスタントを受け入れ、教会監督権を掌握し、国家行政機構に組み入れた。
一方、カトリックにとどまる領邦君主も、混乱し弱体化する教皇権力の中で、領内の教会を厳しい統制下においてその支配権を強化して行った。
こうした領邦君主の自国の権力強化と領邦君主同士の利害対立抗争が宗教戦争のもう一つの要因で、信仰をめぐる神学的論争から出発しながら、聖・俗諸侯と皇帝の三つ巴の政治取引、政治抗争がドイツの宗教戦争の実態とも言える。その最たるものが「三十年戦争」である。

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新約聖書
1521年帝国追放令を受けたルターは、フリードリヒ賢公に右のワルトブルグ城に匿われる。この期間の10ヶ月足らずで、ルターは新約聖書をギリシャ語原典から平易な中部ドイツ語に訳出した。

このドイツ語訳聖書が広く読まれて近代ドイツ語の基になったと言われている。その陰には、グーテンベルグの発明した可動式印刷があったことは言うまでもない。
三十年戦争 (1618~48)
「30年戦争」は、プロテスタントとカトリックの敵対から始まったが、最後は、この宗教に関係なく、西欧列強国の覇権争いの形をなし、西欧の殆どの国を巻き込んだ、ヨーロッパの最も破滅的な戦争である。
この時期、寒冷化による凶作、ペストの流行が追い打ちかけ、西欧の歴史を100年以上逆戻りさせたと言われ、列強国の勢力地図の塗り変え以外、歴史的成果の全く見出せない戦争と言われている。主戦場であったドイツを始めとする北欧は壊滅的で、ドイツの葡萄栽培とワイン交易を著しく後退させたばかりでなく、ヨーロッパ経済の大動脈であったラインやハンザ同盟を衰退させる要因にもなった。

戦後、ヨーロッパで始めての国際会議がウエストファリアで開かれ条約が締結された。
神聖ローマ帝国の諸邦は、諸自由都市も含め、領邦国家としての君主的・国家的諸特権を確認され、外国との条約蹄結権さえ認められた。
これは、神聖ローマ帝国皇帝は名のみで実質的権力を何も持たないことを意味する。形の上で、神聖ローマ帝国は300余の諸国の連合体であることが確認された訳である。中世以来積み重ねられた既成事実の国際的確認とも言えるが、小国分裂を常態化したものである。これはフランスやイギリスと著しく異なるドイツ独自の諸邦の連邦制と言う国制と捉えることも出来る。

各領邦の宗派は、「領主の宗教がその地の宗教」の原則が確認され、固定された。 ただし、異なる宗派の信徒や信徒団体の存在も認められ、もはや強制改宗はないものとされた。こうして宗教的紛争や戦争の火種が取り除かれたのである。

領土的には、スイスやオランダの独立を承認し、フランスは独仏間のロートリンゲンやエルザス地方に領地を得た。スウェーデンがヴユーザー川、エルベ川、オーダー川の河口に領土を獲得した。ユトランド半島の付け根ホルシュタイン公国はデンマーク領となった。ライン川の河口はオランダだから、ドイツは大きな河川をもちながら、海への出口をすべて外国勢力に制せられるという事態になったのである。
ブドウ栽培の衰退と変遷
15世紀末には、ドイツのブドウ畑は膨大にふくれ上がり、例えばフランケン地方などは現在の数倍の4万haで、ドイツで最大のワイン栽培地域となっていた。(当時は量が第一で質が顧みられることは殆ど無かったが・・・・)

しかし、16世紀に入ると、大規模な戦乱によってこのブドウ栽培は衰退する。 1524年に勃発した農民戦争。続いて1618年からの「30年戦争」が追い打ちを掛けた。畑は荒廃し多くの農民が土地を捨てた。

19世紀に入ると、ナポレオンのヨーロッパ制覇が始まり、1803年の、ナポレオンによる教会・修道院の世俗化令は、それまで培って来た高度な修道院によるワイン文化の多くを廃れさせてしまった。その後も、病害虫や戦争の惨禍は続き、第2次大戦のその惨禍は最大であった。

フランケン地方を例に取れば、 現在は、ブドウ畑は6,000haまで回復しているが、かっての4万haには遠く及ばない。 しかし、ブドウ畑のこの縮小は、いい結果をももたらしている。ドイツの多くのブドウ栽培地が、昔の大量ワイン生産地から良質ワイン生産地へと生まれ変わって行ったのである。

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