ワイン産地研究の大御所・ロジエ・デイオンが述べているように、 ワインは土地の産物であると同時に人為の産物でもある。ボルドーワインの偉大さはボルドー人たちの政治的手腕によって獲得された面が大きいことは否定できない。
1570年代、ピエール・ド・レストナックなる人物がラモット・マルゴー周辺の小さな地所を集め始めた。これが後の「シャトー・マルゴー」である。同じ頃にはボンタック家はサンテステフ、ル・タイヤン、バ・メドックの地所を手に入れていた。
「ホー・ブリヤンと呼ばれるフランス・ワインの一種を飲んだが、これはいまだかつてお目にかかったことがないような独特の味わいを持つうまいものだった」 これは、あの赤裸々な奇書と言われ有名な「日記」のサミュエル・ピープス氏の1663年4月10日の「日記」の一節である。彼が味わったのは「オー・ブリヨン」だった。
ボルドーのポンタック家は、ボルドー・ワインの最も古くからのご贔屓であるイングランドで、自分のブドウ園のワインに、「オー・ブリヨン」と「ポンタック」という銘柄名(ブドウ園の名をつけて売り出された最初のワインで、今日のシャトー・ワインの原型)を付け、今日で言うマーケティングを始めたのである。
1660年、ボンタック家の当主は息子をロンドンに送り、「ボンタックの首領(ヘッド)」という看板の酒場を開いた。ロンドンの最初のレストランとも言われ、かつて見られなかったような贅沢な酒場で、値段は非常に高く、通常の高級ワインの3倍以上だった。 これが大成功した。ロンドンの文化人や貴族に評判を呼び、フランス革命直前の1780年に取り壊されるまで1世紀以上も商売を続け、「オー・ブリヨン」は最高級ワインとしての名声を獲得していく。
ボンタック家は、商人階級で、ワインの輸出と織物の輸入で財をなし、ボルドー市長や議会の議長を輩出するボルドーの名門で、その収入と生活様式は、ほとんど王侯と呼ぶにふさわしく、邸宅は四つの丸屋根を持つ町一番の豪邸であった。
18世紀のボルドーは、全く新しい相貌を呈した興隆の時代だった。 ワイン貿易は量的にも増大したが、質的には革命的と言ってもいいほどの変化を遂げた。
しかし、最も劇的な変化は、植民地(サント・ドミンゴ&ハイチ)との砂糖と奴隷貿易で莫大な富を蓄積した事である。 (奴隷貿易は年36,000人と言う、とんでもない数字で、革命当時にはハイチには50万人の奴隷がいたと言う)
1770年代はボルドーの植民地貿易が最も盛んだった時期で、ボルドーに入港した船は「整備する暇も無く」みなとんぼ返りしていたと言う。
こう言った貿易で莫大な利益を得ていた町は、フランスでも他には無く、この莫大な富の蓄積が、「大劇場」の建設をはじめ、都市の大改造を可能にし、革命時には、フランスで一番立派な近代的な町となり、港町としての規模も最大となった。
時間的にはこの植民地熱より先に、ボルドーでは、「葡萄植え付け競争」が始まった。
ラトゥール、ラフィット、マルゴー、オー・ブリヨンなどは、既に名醸地としてイギリスでは好評を博していたが、ルイ15世の宮廷でも受け入れられるようになると、それに続けと、この時期、法服貴族や豪商たちがメドックやクラーブに新たな葡萄園の開発に走った。それが今日のメドックに於ける大半の葡萄園の始まりである。
ボルドー周辺の田園地帯にも同じ「葡萄植え付け競争」が起こっていて、1744年には、実に「管轄区域の半分がブドウ畑だ」と地方総監の代理人の報告がある。ブドウ畑が増えれば穀物生産が減少するからと言う理由で、「新しい植え付け禁止」令も一時出されるほどの「狂騒」振りだった。
質を求めるイギリスはもとより、ドイツ及びバルト海沿岸国のワイン需要の増大がもたらたこの「狂騒」は、1730年から70年の間に、ボルドーのワイン輸出額を10倍に上昇させた。
この時期、一級の葡萄園やそれに追従する葡萄園は、あらゆる手を尽くして最上のワインを生み出そうと、儲けた金を土地につぎ込んだ。
創設者マイヤーの5男、ジェームズ・マイヤー・ロスチャイルド(1792~1868)は、1817年にパリ支店を設立。その後、50年間フランスにおける最も強力な銀行家として辣腕を振るう。
彼は、かの有名なフーシェの邸宅を買って、フェリエールと名づけ、ヴェルサイユに次ぐフランス最大の美邸とし、文人芸術家のサロンにした。ここで繰り広げられる社交は絢爛豪華そのもの。当時の欧州の粋が集まった。この邸宅の美しい女主人ベッティに、ハイネは「天使」と言う詩を捧げ、アングルは肖像画を描き、ロッシーニは曲を作った。トラクロアやショルジュ・サンドも常連であった。
「この商人の町で、私は世の中が平等ではないことを教えられた。伯母からは、ワイン取引以外の商いに手を染めるのは恥だと教え込まれた。しかし、そこにもなお様々な序列があることを忘れてはならなかった。上質のワインを売る者は並のワインを売る者より偉かった。並みのワインだけを売る者はせいぜい一介の医者か助教授と同等とみなされた」と。
三権分立の思想をこの世に提唱したのが、モンテスキューの有名な著書「法の精神」である。モンテスキューは、宗教戦争に決着をつけたアンリ4世に仕えた家系で、現在、ボルドーのグラーヴ地区に残っていて、観光名所になっているラ・プレドの館で生まれた。18歳で弁護士になり、ボルドー高等法院評議官の地位と同院長の官職とを、それぞれ父と伯父から継いでいる。父親に続いてボルドー市長をも務めた。
モンテーニュと違って派手な性格で、才気煥発のインテリだっ たから、ボルドー・アカデミーの会員になっただけでなく、アカデミー・フランセーズ入りに成功した。パリで多くの文人学者達と交遊があり、有名なランベール夫人のサロンの常連だった。それに加えてイタリア、ドイツ、イギリスヘそれぞれ旅行、滞在して各国の政治形態を観察し、その国の知識人たちとの親交も深めている。啓蒙の時代の立役者の一人である。
モンテスキューは、自らを「作家にしてぶどう栽培者である」と称している。 「私は法廷によって財を築こうとは思わなかった。自分の土地を価値あるものにすることで財をなそうと思っていた」という彼は、積極的にぶどう園を経営し、著作「法の精神」が有名になることで、そのぶどう園のワインが売れることを喜んだ。隠遁生活を送ったモンテーニュよりも、はるかに現在のネゴシアンやワイン生産者に近い存在であった。
モンテスキューの住居であったラ・ブレドの館は、AOCのクラーブ地区にあって、その瀟洒な建物の堀の外には、現在も葡萄畑が拡がっている。
現在グラーヴで格付けされている「シャトー・ラ・トウール・マルティヤック」と「シャトー・オリヴイエ」はモンテスキューの畑だった。現在格付けこそされていないが、近年めきめき頭角を現わし、格付けワインなみに扱われている「シャトー・ラ・ルヴィエール」と「ロシュモラン」も彼の畑だったから、畑のよさを見る目があったことは確かである。
モンテーニュの『随想録』(エセー)は、時はまさに宗教戦争の最中で、旧教徒と新教徒が、たがいに信条を錦の御旗にして血みどろの内戦をくりひろげていた時代に生まれたものである。