
ビザンツ帝国が皇帝教皐主義として、また、イスラム世界が神政政治として政権と教権が一体化しているのに対して、西ヨーロッパ世界では、ローマ帝国の普遍的な「帝国」理念が、ローマ教会に継承されながらも、教会の宗教権威と王の世俗権力とがそれぞれ自立した共生関係にあって、性格を異にする。
カロリング帝国は広大な領域を支配したが、メロヴィング王国と同様、それを統治する機構は極めて弱かった。
アーヘンに宮廷が置かれたが、しっかりした組織に出来上がっているローマ教会の司教座組織を行政に活用せざるを得なかった。ロタールが「皇帝」の称号を得たが、有力貴族や司教の支持を得た者が帝位に就くことになっていたので、この3分割によって皇帝の権威は急速に低下した。 西フランクからは、シャルル2世(禿頭王、在位843~877)以後、「皇帝」に選ばれた者はいない。 「ヴェルダン条約」の後も、王が死ぬ度に再配分をめぐつて内乱が起こり、東西フランク王国に挟まれた「ロタールの国」の北部は、東フランクの領有となつた。 こうして生まれた配分が、地理的には現在のフランス・ドイツ・イタリア3国の原型である。


商人たちは、それぞれの開催期間の始めの数日間を売場の確保や、商品の展示などの準備に当てた。また最後の1週間は取引はせず、もっぱら代金の決済や、信用取引への振替あるいは他の場所で作った負債の支払いなどの整理を行った。


宗教改革の試練を経て、カトリック中心の思想から、人文主義への途を開き、それをさらに一歩進めた啓蒙思想の時代が18世紀のフランスである。
こうした時期に、旧世界を地殻変動させるひとつの楔が打たれたのが『百科全書』だった。 もともとこの出版は、当時の人々が関心を持った学問と技術の集大成として、近代的知識と思考方法によって人々を啓蒙することを目的に、本屋が始めた事業にすぎなかった。
溢れ出る才能と編集者としての実務能力をそなえたディドロが、その企画を軌道に乗せた。 彼は、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソー、ダランベールという当時の第一級の思想家を協力者に迎えた。この全書の執筆に参加したのは学者・医師・文人・知識人・軍人・技師・職人など総数184名に及び、百科全書派と呼んでいるが、その中には博物・科学(物理)・化学・植物学・農学者が含まれていた。
最初、検閲当局によって没収措置がとられるが、警視総監や出版を取締まる立場の出版局長も好意的だった。この発禁本をボンパドゥール夫人が持っていて、国王が火薬や白紅の製法について質問するとこの本を持ち出して答えたりした。
全書は27巻から成っていて、980リーブルもしたが、予約を申込んだ者が4,300人もいた。この発禁の書は、宮廷と貴族の館や、田舎司教にまで広がり、当時のフランスのインテリの必読の書になっていった。フランスの人々に与えたその思想的影響とインパクトは、計り知れないものがあった。
ポンパドゥール夫人のような上流サロンから、弁護士、小商店主、手工業の親方などの読書サークルまで、様々な社会的レベルで、市民社会を志向する思想(フランス革命に至る)が議論される基になったのである。
シャプタルは、百科全書派の系譜を引く、農業に大きな影響を与えた化学者だが、革命をうまく生きのび、後にナポレオンに登用されて内相になる。