オーストラリア・ワインの歴史

ワイン生産の先覚者

1788年、第1船団を率いるフィリップ提督が、艦隊(11隻、総員1,000名強)を率いて、ケープタウンを経てニュー・サウス・ウェールズの植民地に到着した際、葡萄の木が持ち込まれたと言われているが、この葡萄の木の栽培は失敗に終わった。

オーストラリアのワイン生産の先覚者は、ブラックスランドとマッカーサーである。また、オーストラリアのワインの父と呼ばれているのが、ジェームス・ハスビーである。

ブラックスランド


は、1813年シドニー西方のブルー・マウンテンズを越える道を発見した探検隊のメンバーで、オーストラリアの歴史上、著名な人物である。(この道によって西方に広がる大平原への入植が始まり、牧羊が行われた)
ブラックスランドはシドニーの西側パラマッタ・ヴァレーの約180haの土地に葡萄を植え、ワインの製造を始めた。1822年には、ブランディーで強化したワインを英国に輸出し、品質はともかく、奨励的な意味で英国で表彰されている。

ジョン・マッカーサー


は、羊のメリノ種を導入し、オーストラリアの農業発展の基礎を築いた歴史上有名な人物である。息子のウイリアムと共に2年ほどフランスとスイスを旅し、葡萄の木の収集と栽培技術を学び、1820年にシドニー南方、カムデンに500エーカーの土地を得て、農場を拓き葡萄を植えた。試行錯誤の末、葡萄園をペンリス近くに移し、1827年には、9万リットルのワインを生産出来るようになった。これが最初の商業ベースのワイン生産である。

ウイリアムは、1944年、実用的な「栽培・醸造・貯蔵に関する書簡」を発行して、オーストラリア初期のワイン生産の発展に貢献した。

ジェームス・ハスビー


は、1801年に英国で生まれ、1824年父親と共にオーストラリアに移住。移住前、オーストラリアのワイン生産の将来性を見込んで、フランスで数ヶ月葡萄栽培を学んだ。1824年、ハンター・ヴァレーの800haの土地を譲り受け、葡萄栽培を始めた。
その後、義理の兄弟のケルマンが経営することになったが、ワイン生産者としてはよく知られた存在であった。

1831年、フランス及びスペインのワイン生産地を視察し、再度、各地の栽培と醸造を学び、英国政府の要請により、フランス、スペインの葡萄の木の収集を行い持ち帰り、それが各地に送られた。「栽培と醸造の実用書」や「フランス・スペインの葡萄園訪問記」をも出版し好評を得ている。
ハンター・ヴァレーでは、1852年には186haの葡萄園が形成され、年間272,000リットルのワインと4,500リットルのブランデーが生産されるようになり、ハスビーはハンター・ヴァレーの創設者と言われている。

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ワイン産地の形成 (19世紀後半)
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19世紀後半には、ワイン産業は徐々にではあったが、確実に成長して行った。ニュー・サウス・ウェールズ州ではハンター・バレーを中心にイギリス系の住民によって、ヴィクトリア州ではヤラ・バレーを中心にフランス人とスイス人の影響の下に、南オーストラリア州ではバロッサ・バレーを中心にドイツからの移民によって生産が行われた。
州の大都会に比較的近いところに、前記のような先導的な産地が形成されたのである。

「John Bull's Vineyard(英国民の葡萄畑)」として、ヨーロッパで知られる存在にもなって行き、英国向けのワイン産地として興隆して行った。

しかし、国内的には、一般庶民は、アルコールに対する渇望はあったとしても、アングロサクソン系が主体であり、ワインに対する理解は希薄であった。また、ワインをたしなむ上流階級からは、品質も相当向上してきているにも拘らず、「プライドが許さない」と言う事でしょうか、オーストラリア大陸で生産されるワインは大方見向きもされなかったと言う時期でもあった。

フィロキセラ (19世紀末)
1875年、ヴィクトリア州の州都・メルボルンに近いジロングでフィロキセラが発見された。フィロキセラは主として根に寄生するアブラムシの一種であるが、防除する手段はなく、ジロング、ベンディゴでは、ブドウの木を抜く措置をとるしかなかった。

この時期は、南オーストラリア州のワイン産業の急速な発展に対抗してヴィクトリア州では補助金を出してブドウの植栽を拡大していた。これがフィロキセラを拡散する原因にもなり、やがてヴィクトリア州中部と北部にも伝染していった。
ヴィクトリア州北東部のラザーグレンでは1899年にフィロキセラが発見され、最初は大したことはないと思われたが、1906年には壊滅状態となってしまった。また、ゴールバーン・バレーには1895年に伝播した。
フィロキセラはこのようにヴィクトリア州のワイン産業に決定的なダメージを与えたのである。

更に、1901年にはオーストラリア連邦が設立され、今まで各州間の取引に課されていた関税が廃止されたので、南オーストラリア州の安いワインが流入し、ヴィクトリア州のワイン産業に一層の打撃を与えたのである。

当初一番有望とみられ、オーストラリアのワイン生産の50%を占めていたヴィクトリア州のワイン産業は、このようにして停滞し、1900年代の初期に主導的地位を南オーストラリアに譲ることとなった。

酒精強化ワイン(20世紀初頭)
20世紀を境にして様相が変わりはじめた。つまり、イギリス系の移民が大部分を占めるオーストラ リア人のワインに対する嗜好が、次第に甘いものに定着していったのである。
産地としてもその地域に合った特色のあるテーブルワインを造ろうとする努力が次第に薄れ、シェリーやポートワインのような甘口のワイン造りに傾斜して行った。
そして、ワイン販売額の90%は、このタイプのワインとなってしまったのである。

ワインの輸出についてもオーストラリアは、当時大きなハンディキャップを負っていた。ヨーロッパまでの輸送距離が長く、かつ赤道を通過しなければならない。輸送技術が未発達の段階でこれに耐えるワインを輸出する必要があり、輸出されるワインも通常のワインにアルコールが添加されて長持ちするポートやシェリーなどのいわゆる酒精強化ワイン(フォーティファイド・ワイン)が多くなった。
また、輸出されるもう一つのタイプは、フルボディと呼ばれるコクのある重い赤ワインで、色が深く、 タンニンが多い、長期間保存できるワインであった。

しかし、酒精強化ワインにしても重い赤ワインにしても遠いイギリスまで輸送され、消費される段階までになると品質が劣化している場合も少なくなく、オーストラリアのワインに対する評価は決して高いものではなかった。いったん落ちたオーストラリアワインに対する評価を取り戻すのは容易なことでなく、回復するまでにその後半世紀近くもかかってしまった。

国内消費者の嗜好の変化とワイン生産の近代化 (第二次大戦以降)
第二次大戦が始まると、100万人に近いアメリカ兵が続々とオーストラリアに渡ってきた。当時のオーストラリアの人口が700万人であったから、その影響は大きかった。アメリカ文化がオーストラリアに急速に浸透し、今まで英国一辺倒であったオーストラリアに、政治・経済面ばかりでなく文化面でも大きな変化を及ぼした。

大戦後しばらくしてから、オーストラリアは移民政策としてイタリア人、ギリシャ人、ユーゴスラビア人などを多く受け入れ始めた。これらの人々が南欧の食生活とワインを飲む習慣を持ち込んできたのである。1950年を過ぎた頃から、単調なイギリス的食事パターンが変化し、ワインの消費量も増加し、食事中にワインを飲む習慣がオーストラリアでも定着して行った。
食事中に飲むワインは辛口のワインが適しており、従来のような甘口のワインに代わって比較的辛口のテーブルワインの消費が多くなって行ったのである。

ワインの消費が伸びてくると、次の段階として、消費者の興味はより高級なもの、変化に富んだものへと移っていく。生産者側もこれに応じて、特色のある、より上質のワインを追求し、生産するようになって行った。ワインライターのヒュー・ジョンソンは、この点に関して、『ワイン物語』のなかで「良いワインは、市場がそれを求めてきたときに造られてきたものである。」と述べている。

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ワインブームは1960年代にまず赤ワインから始まっているが、それに続く70年代の白ワインブームの時代に消費量が一気に拡大した。 このようなワインブームの背景には、70年代にオーストラリアでは、経済・文化面で大きな変化があったとみなければならない。マルチ・カルチャリズムつまり多文化国家を標梯しはじめた時期であった。また経済的には1973年にイギリスがECに加入して、オーストラリアの輸出が英国からアメリカや日本などの他の国に重点が変わって行く時期でもあった。

オーストラリアは、建国以来イギリス文化をそのまま取り入れ、オーストラリア独自の文化を追求せず、もっぱら物質的に豊かになることのみに専念してきた。国が豊かになり多様な民族が入植してくる中で、オーストラリアのアイデンティティー、文化に対する関心が強まってきたのである。オーストラリアの原点を振り返り、アボリジニに対して土地の返還を決めたのもこの時期である。オーストラリアでは、ワインブームも文化を追求する一つの形態であった。

このような背景の中で、オーストラリアのワイン造りは、ヨ-ロッパの様なワイン醸造方法等を規制する法律を持たなかったため、新しい試みやブドウ品種間、産地間のブレンドによるワイン造りが行われると共に、より効率の高い葡萄栽培地として、大陸内部のマレー河流域の開発が大規模に行われた。 又、一方では、より冷涼なマーガレット・リバーやタスマニアなどでテロワールを生かした特色あるワイン造りも行われるようになっていった。