修道院の農地の開発や農業技術の革新が引き金となって、農村一般に広がった「大開墾」は11~13世紀に頂点に達した。ルネサンス期に入り大規模な拡大は行われなくなるが、農村社会には大きな変化が生じていた。
まず、多くの土地が領主から富裕市民の手に移って行ったことがあげられる。
地主になった富裕市民は、しばしば農村の所領に滞在するようになる。そして、中世初期の領主と従属農民の関係に替わって、地主と小作人の関係が拡大し、特に、中部イタリアを中心に「折半小作制…生産物を契約で折半する(農民の生産意欲を惹き起した)」が著しく普及した。
この形態は、コムーネ(自治都市)期のイタリアに特徴的なものであるが、15世紀以後商工業が頂点に達し下降の傾向をはじめると、金持ちになった商人の多くが、商売より利子や土地に稼ぎ貯めた金を振り向けたことが、この傾向に拍車を掛け、農業生産を増加させた。
この時期、各地のコムーネ(自治都市)は、灌漑や排水施設の建設に力を注いだ。
特に、ロンバルディア(ミラノ公国)やヴェーネト(ヴェネーツィア共和国)の「平野部」では、この面で大きな進歩があった。ロンバルディアは18世紀においてヨーロッパ有数の富裕な農村地帯となるが、その特徴は潅漑による牧草栽培である。これは、冬季に牧草地に水を流し続けることによって凍結を防ぎ、牧草の生育を確保するもので、小麦との連作、畜舎の中での家畜の飼育を可能にし、生産力を飛躍的に増大させた。
その技術的基礎がこの時代に準備されたのである。
一方、トスカーナやヴエーネトの「丘陵地帯」では、葡萄やオリーブの植樹が大幅に増加し、同一耕作地の中に果樹と穀物(あるいは牧草)が同時に栽培される伝統的な「混合耕作」が更に拡大することになる。耕地は10ヘクタール程度の農地にまとめられ、小作農民はそこに居住し、集約的な耕作を行った。このような農地から、地主(富裕市民)は、穀物・ワイン・オリーブ油などの様々な収穫を、折半小作契約によって現物で得たのである。