11世紀以降、イタリアの農業は、何世紀にも渡る沈滞を抜け出し、徐々に生産力を上げ、12世紀には「経済改革」とも言える活況を呈する。領主が小作人に土地を与え、収穫の何割かを小作人に残す制度を取り入れたため労働に励んだことも大きい。
自治都市(コムーネ)の発展と地中海貿易で富を蓄積して行く中で、戦争はあるものの、かっての混乱期は脱し、世俗の貴族や富裕商人の間にも「ワイン文化」は復活する。力の象徴として、司教や修道院にならい自分の館の周りを葡萄畑で囲み、ワインを造ることが始まり、自分のワインを振舞うことを誇りとした。
ワインの飲酒は庶民の間にも徐々に普及し、葡萄栽培はローマ帝国時代とまではいかないが復活し、普及品ワインも多く出回ようになった。
この時期の特色として、財力をつけた商人や聖職者など上流階級の間では、ギリシャを始めとする東方の甘口ワイン(アルコール度の高い)が愛飲されたことが挙げられる。
地中海貿易は、東方の絹や香料などを西方や北方に運び、西方・北方からは穀物、塩、ウール(羊毛)、木材を東へ運ぶ仲介貿易であるが、ワインもまた重要な取扱い品目であった。
ギリシャ、キオス、キプロス島、クレタ島で始まり、シチリア、パンテレリアで造られた甘口ワインを運んだ。北ヨーロッパ諸国、フランス・ドイツ・イギリス・オーストリアの富裕層の問でかなりの高値で取引された。(14世紀のロンドンには400軒の酒場があったが、3軒だけがキプロス・ワインを売ることが許されたと言う記録があるから、金持ちだけが飲める贅沢品であったことは間違いない)
北方諸国の増大する需要に対応するため、ヴェネツィアは、自国内でもワイン造りをするようになり、ローマ時代より名を馳せていたヴェローナ近郊で甘口ワインの生産に力を入れはじめ、隣国フリウリのトリエステ近郊でも同じように甘口ワインの醸造が行われるようになる。
この時期、甘口ワインを造るための陰干し技術(レチョート)が格段に進歩する。古代ローマ時代から伝わる品種に加え、ギリシャを始めとする東方から様々な品種が持ち込まれ、葡萄の品種改良も行われた。イタリアでは、ワイン名を品種で呼ぶことが多いが、この中世、どこでワインが造られようとも、品種名でワインを区別していたことによる。
この品種改良や醸造技術の改良は、最初は総て修道院によるものである。
15世紀後半、フィレンツェで銀行業を営んでいたアンティノーリ家、フレスコバルディ家もワイン業に参入し始めている。フィレンツェのルネサンスによって、フレンツェ・ワインに対する国際的関心が広がっていったからであろう。
この時代、イタリアワインとしてはシチリアの甘口ワインが一番有名で、次いでヴエネト、ピエモンテ、トスカーナのものであった。
1488年、ポルトガル人が喜望峰を発見したことは、ヴェネツィアには大打撃であった。ヴェネツィアが東洋の贅沢品を半独占していたインド方面への航路が衰退するターニング・ポイントであった。シエクスピアが、ヴェニスの商人・アントニオに「船荷のことを考えると気が滅入る」と言わしめている戯曲を書いたのは、約100年後の16世紀末、1594年頃のことである。
17世紀は、地中海貿易の中心がヴェネツィアからオランダのロッテルダムに完全に移る時代である。