「ローマ帝国衰亡史」の著者ギボン(1737~94)は、ローマの宗教を以下のように言っている。
「ローマ社会にはありとあらゆる信仰がはびこっていたが、大衆はどれも本物だと思い、哲学者はどれもまやかしだと考え、また、政府の役人はどれも利用価値はあると見なしていた」と。
教養あるローマ人の多くは、初期キリスト教を下層階級の新興宗教の一つと蔑視していた。信仰の自由を保障していたローマ帝国ではあるが、皇帝ネロが、64年のローマの大火をキリスト教をスケープゴードにして断罪したように、往々にして新興宗教や秘密結社は迫害されていた。
それにも拘わらず、キリスト教は都市を中心に民衆の心を掴み普及し、帝政後期には国教になって行く。それは、真摯な教義にもあるが、徐々に、教養あるローマ貴族が聖職に就き、教理の理路を整え、組織化を行っていったことが大きい。教団への財政援助も大きく貢献していたことは言うまでもない。(国教になってからは、税制面での優遇が教会組織の強大化に拍車を掛けた)
ローマ・カソリック教会の組織強化と権威を高めた聖職者の一人、ミラノ司教・アンブロシウス(在位374~397)は、首都ローマの長官を務めた名門貴族で、人格、能力に優れた人ではあったが、司教に推薦された時は、キリスト教徒ではなかった。司教就任直前に入信し、全財産を教会に寄贈している。この様に、教会の第一人者である司教は、信仰の前に、人格や行政能力に長けた者が選ばれている。教会の組織強化と広がりには、このような人が大きく貢献しているのである。
キリスト教の普及は都市を中心に行われたが、その都市の第一人者は司教である。
中央集権化が進む過程で、ローマの司教が法王(教皇)として頂点に立つ事になるのだが、後に、その法王(教皇)は司教の中から選ばれることになるのである。
「カエサルのものはカエサルへ」と聖書にはあるが、信仰心のまるでない野心家の法王が少なからずいたことも、ローマ・カソリック教発展過程の風土にはあった。
もしキリスト教が500年前か、500年後に始まって、ローマ文明のよう地盤を持たなかったら、間違いなく地方の一宗教に留まっただろうと歴史家は言う。