Introduction ー イタリアワインの歴史

古代ローマ
1.古代ローマ以前

古代ローマの建国は紀元前600年頃とされているが、建国当初のその勢力地域はローマとその周辺のこく狭い地域に過ぎない。
イタリア半島の南部とシチリア島の沿岸部の多くの港は、ギリシャ人が前8世紀頃から植民し、地中海の交易を活発に行っていた。

イタリア半島中部はエトルリア人が輝かしい文明を築いていた。
エトルリア人の起源は今なお謎に包まれているが、歴史の父へロドトスは、紀元前10世紀頃小アジアから海路移住して来た民と記している。
初期のローマ人は非常に多くのことをエトルリア人から学び取った。

 エトルリア文明とペルージャ
Etrusco

エトルリアは、「謎の民族」と呼ばれている。それは文字が解読されていないからである。しかし、古代ローマが興る前、イタリア中部で高度な文明を築いていたことは確かである。
エトルリアは「滅亡」したのではなく、ローマに「同化」して姿を消した。
その繁栄の痕跡が現代の街の中に生き続けている唯一つの都市がペルージャである。

ペルージャは中部イタリアに数あるいわゆる山上都市の一つで、標高493mの位置にある。
古代において、始めにこの地域に住んでいたのは「ウンブリ人-umbri」であった。ウンブリ人の足跡については、全く解っていないと言っていい。しかし、現代でもウンブリア州という州名としてその名を遺している。その州都がペルージャである。
遅くとも前5世紀に、ウンブリア人が住むこの地に、エトルリア人が現れて城壁を築いた時からペルージャの歴史は始まる。 エトルリア人の起源については3つの学説があって結論に至っていない。しかし、いずれにしても、高度の武力と文化を備えていて、原始的なウンブリ人を征服、あるいは放逐したことは間違いない。

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エトルリア人は、統一国家を形成しなかったが、北はポー河流域まで都市を建設して行き、12の都市同盟(ゆるやかな連合体)を結成する。この方法が、後にローマ人に引き継がれる。
各都市国家は、初め王政であったが、やがて大地主・商人などの貴族の手に政権が移った。その下には奴隷化された先住民や隷属的農民があり、貧富の差は甚だしかったと推測されている。
貴族の財力は大きく、ギリシャには無いアーチの原理を東方から導入し、それを大いに利用して大きな都市建造物・橋梁・墳墓・港湾設備などを造った。このアーチの原理もまた、ローマに受け継がれて行くのである。

葡萄栽培とワイン造りも、ギリシャ伝来と言われているが、ローマはエトルリア人からも受け継いでいたことは確かである。
やがて前4世紀頃からローマのエトルリア侵攻が始まり、12の都市は相次いでローマに征服されることになる。ペルージャも前295年、山麓のセンティーノの戦いで決定的な敗北を帰し、ペルージャのエトルリア時代は終りを告げた。

ペルージャの最も高い地域は城門と城壁に取り囲まれているが、エトルリア人が前3世紀頃築いたもので、その大部分が残っている。
エトルリア文化の遺物が殆ど墳墓の中からの発掘品で占められている中で、地上に残る数少ない建造物を有しているのがペルージャである。 ペルージャの市民はそれを誇りに思い、エトルリア文化の遺構を大切にしている。

 

2.勃興期

建国(前600年頃)から、イタリア半島の中部、南部の統一(前270年)まで。

初めは王政だったが前509年に共和制に変わった。 初期のローマ人は3部族(トリプス)に分かれ、各部族は、10クリア(独立の集落で、固有の領域・祭祀と指導者とを持つ)に分かれていた。
このクリアの長老が集まって出来たのがローマを特長づける「元老院」。所謂、貴族の最上層部である。
貴族階級の下に平民と言われる階級があり、その関係は親分(パトロヌス)・子分(クリエンテス)の関係と捉えてほぼ間違いない。

戦いによって征服した民族を奴隷として取扱っていたから、ローマ社会は、貴族、平民、奴隷で構成された階級社会であった

 サビニーの女たちの強奪
サビニーの女たちの強奪

 

ローマが建国された当初は、女性が非常に少なかった。子孫を残し国を維持するためには多数の女性が必要だった。そこで、ローマ人は、ローマの町の祭りに近隣のサビーニ族を招待し、宴たけなわの時争いを敢えて起こし、サビーニ族の若い女たちを争いに巻き込み、無理矢理連れ去ってしまった。

祭りの時は、争いはしないと言う掟を破ったこの計略にサビーニ族は怒り、女たちの返還を求めて戦いが始まった。
戦いは都合4回行われたが、その都度ローマが優勢で、サビーニ族は滅ぼされかねない状況になってしまった。4回目の戦いのさなか、突如、さらわれたサビーニの女たちが現れ、双方に向かって「戦争の中止」を懇願した。

強奪された身とは言え、ローマ人からは妻として大事にされていたから、夫が親兄弟と殺し合う状況に耐えかねたのである。この思わぬ仲裁によって、ローマ王のロムルスもサビーニの王も抗争を終結する。戦いには圧倒的に優勢だったローマは「両部族の合同」を提案する。ローマは、ローマの7つの丘の一つを居住地としてサビーニ族に明け渡し、王位もサビーニの王と分け合う共同統治を決める。また、ローマ市民権も、有力者には元老院の議席をも与える。

「敗者さえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、ローマの強大化に寄与した事はない」と、歴史家ブルタルコスが評しているように、ローマ独特の「同化政策」は、この「強奪」から始まったのである。

ダビッドやピカソなど古今の著名な芸術家が、この故事をテーマにして数多くの作品を創っている。また、欧米の新郎が新婦を抱きかかえ、新居の敷居をまたぐと言う習慣もこの故事によるものと言われている。

 

3.海外発展期

シチリア島出兵から西地中海の制覇、カルタゴ滅亡、ギリシア本土の制覇(前146年)まで。

ほぼ1世紀間に渡るポエニ戦争では、名将ハンニバルに苦戦をしながらも、徐々に軍事力を強化したローマは、カルタゴに勝利する。その後、ギリシャを初めとして周辺国を撃破する。

カルタゴとギリシャに握られていた地中海の制海権をも獲得し、名実共に地中海世界を制覇する。

国内にあっては、先進のギリシャ文化を消化・吸収して、ローマ文化が形成されていくが、貴族と平民に間の貧富の差が広がり対立が激しさを増し、平民が次第に権利を広げていく時代でもあった。

 奴隷と市民権
古代ローマの墓標

 

ローマ帝国の人口の中で奴隷の占める割合は、平均すると15~20%ほどであったと推測されているが、農村部ではこの比率はもっと高かったと考えられている。 大農場や鉱山などでは、鎖につながれ鞭打たれ、休む間もなく役畜のように酷使される奴隷が大勢いて、こうした非人間的な扱いがしばしば奴隷の反乱蜂起に繋がっている。
この奴隷が、ローマのあの壮大な建築物建設だけでなく、貴族の所有する大農場の耕作に大きく寄与していたのは確かである。

法律がしっかり整備されていたローマに於いて、その財産法では、奴隷を人ではなく物として扱っている。しかし、奴隷の立場はその境遇によって大きな違いがあった。
ギリシャ人奴隷の中には、ローマ人より学問や技能に優れた者も少なくなかったから、技能を重宝がられて、あるいはその容貌を愛でられて、運良く主人のそばで仕えることを許された奴隷は、貧しい自由人よりも人間らしい生活を送っていた。 更には、奴隷身分から解放されてローマ市民になれる、つまりローマ市民権が付与される可能性も少なくなかった。

古代のギリシャでは、奴隷は解放されてもアテネ市民となれることは決してなく、居留外人身分に留められていた。解放した奴隷を市民として迎え入れると言うことは古代世界で全くなかったと言ってよく、ここにも、「ローマの同化政策」とそれによるローマ拡大の契機を見ることが出来る。

 

4.有力者による独裁への移行期

マリウス、スッラ、ボンペイウス、カエサル(シーザー)などに代表されるように、軍隊が有力者の私兵と化し、共和制は名のみとなって、軍隊を背景にした有力者の独裁に移る時代。

古代ローマの共和制は、貴族が構成する元老院によって動かされていたから、貴族の利益が常に優先される。従って、貴族の横暴を抑え平民の不満の解消が政治の重要な要点となって行く。
軍事立国の古代ローマの性格から、軍隊を背景とした有力者が、元老院を抑えて独裁へ移行していくのは時代の要請であったとも言える。

この間、広大な地域がローマの領土となる。新しい領土の統治は貴族が当るから、貴族の富は益々増大し、平民との格差は広がり続ける。

 カエサルのガリア支配
Caesar
ユリウス・カエサルは8年掛けてガリア全土を征服した。
当時、属州に置かれた“軍隊”は、理由が何であれ属州との境界であるルビコン川を渡って、ローマに入って来てはならないと決められていた。 しかし、ガリア全土征服後、元老院との対立が表面化したカエサルは、あの有名な言葉、「賽は投げられた」と叫んで、この規定を破りルビコン川を渡ってローマの戻った。これが、4年間続くローマの内戦の始まりである。

カエサルは、この内戦で遠く離れたギリシアやエジプトや北アフリカを転戦して行った。 その間、征服したばかりのガリアには、カエサルの軍隊は一人も置いていなかった。ガリアの諸部族がローマの支配から脱するには、またとない好機であつたにも拘わらず、ガリアの諸部族は蜂起しなかった。それどころか、スペインでボンベイウス派の軍と戦闘中のカエサルの要請に応じて、兵糧を送ってさえいる。

それは、ローマの建国以来の政治理念とも言える「同化政策」に基づくカエサルの支配哲学に、ガリアの諸部族の長たちは納得して従って居たからである。
ガリア征服後のカエサルの戦後処理の基本方針は、敗者である既存の諸部族の完全な温存にあった。各部族がその本拠地に留まることを認め、自治を認め、部族内の支配系統も認めたのである。ローマの軍門に下った敵の長の家族には、ローマ市民権を与え、且つ、その中の部族の長には、ローマの元老院の議席まで与えたのである。

カエサルは言う、「何にもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから他の人々も、そうあって当然と思っている」と。

 

5.帝政期

前27年にカエサルの養子オクタヴィアヌスが元老院よりアウグストゥスの称号を贈られてから、ゲルマン諸民族の侵入が激しさを増す混乱期まで。

1~2世紀は、「ローマの平和(Pax Romana)」と言われる、ローマ帝国の全盛期である。
アウグストゥスの死後皇帝位はその家系が継いだがネロ帝で断絶。その後、後継者争いの後に、ネルヴァが皇帝となった。五賢帝の最初である。
帝位を元老院議員の優秀なものを指名した五賢帝時代は最も繁栄した。

次のトラヤヌス時代には最大領土となり以後ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アントニウス、アルレリウスと皇帝になった。
ハドリアヌスは文武に優れた哲人皇帝(ストア派)としても知られる。

その後帝位は世襲にもどる。カラカラ帝時代には帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられローマは名実ともに世界帝国となった。

美食・「食べるために吐き、吐くために食べる」
古代ローマの美食

上記の言葉は、全世界からかき集めた富を、奢侈と浪費に蕩尽している不健康なローマ人の悪徳に向けられたセカネの非難の言葉である。 これは、皇帝を始めとするローマの”富裕層”の浪費、奢侈、美食、不正、悪徳に対する文明批評でもある。

よく知られた言葉ではあるが、多くのローマ市民は決してこのような生活をしていた訳ではない。市民権を持つ人の中で、帝政末期は貧富の差が大きく広がって行ったことも事実であるが、風刺詩人・ユウェナーリス等による”悪徳に長じた者が繁栄し、貧乏人を見下し軽蔑する風潮を弾劾する”言葉が数多く残されている。

これが、誇張したものでない事は、首都ローマの市民の住宅事情を知ればよく分かる。ローマ市民の多くは狭いアパート形式の4~5階の集合住宅に住んで居た。上層階にはトイレも水道施設もない「ネスミも逃げ出す」と言われる酷いものであった。
このような集合住宅の密集する所はこんもりと盛り上がった島のような景観を呈していたから、「島」を意味する「インスラー(insula)」と呼ばれていた。 富裕層の「ドムスー(domus)」と呼ばれる一戸建て住宅の25倍もの集合住宅がひしめいていたと言われている。(4世紀頃)
パンとサーカス

首都ローマの人口は約100万人で、近代以前の世界では群を抜いていた。 属州から多くの物資が流入し、富裕者は贅を尽くした生活を送っていた。大衆も皇帝からの施しで”食糧”や”娯楽”を得た。これが「パンとサーカス」と言われるものである。

穀物の無償配給や、年135日にも及んだ戦車競技や剣闘士の戦いなどの見せ物を無料で皇帝は主催した。このような施しはただ民衆の人気を得るためだけではなく、ローマ帝国の支配構造を考えるうえで重要な機能を果たしたと考えられている。 それは支配者としての権威を認めさせるためには必要な振る舞いであり、とりわけ支配の頂点に立つ皇帝に求められたものであった。

そして、帝国内の各地においても皇帝を真似て、有力者がこの施しをすることで権力維持に努めたため、「パンとサーカス」は帝国全域で行われることになつた。 壮大な競技場や劇場跡がローマ帝国の隅々に残っているのはそのためである。 同時に、都市の施設、彫像や凱旋門などのモニュメントも首都ローマのコピーを現地の有力者が自らの出費で積極的に設置した。遠くローマから離れた属州でも「ローマ」の存在を感じることになり、これも属州を統治するに当って重要なことであった。

また、ガリヤ等属州の都市に於けるローマ的な教養を得るための教育も有力者の子弟を中心に行われ、これが、西洋文明の基礎を形作り広げることにもなった。

今日我々が熱狂するプロ野球やサッカー競技などの各種イベントのオリジナルは、古代ローマにその源を持つものである。

 

6.帝政末期

3世紀に入ると、帝国北方のゲルマン部族との戦い、東方のペルシャとの戦いに始まり、中央の統制が大きく揺らいで行く。

帝国各地の軍隊を背景とした司令官を皇帝に即位させる時代が始まる。軍人皇帝が乱立しローマは乱れ、帝国領を2分しそれぞれ正帝と副帝によって治める4分統治体制をとる。実質的首都機能はミラノが果たしていたが、衰退は目を覆うばかりであった。

4世紀末からローマ帝国は一層衰え、ゲルマン諸部族の侵入が激しさを増し、西ゴート、ヴァンダル等ゲルマン人の占領、劫掠がイタリア各地で行われた。

395年、帝国は東西に分裂。
コンスタンチノープルに都を移した東ローマは、専制君主体制を固め、1453年まで生き長らえた。
が、 西ローマは首都機能をミラノからポー河の河口のラヴェンナに移し、北イタリアにその勢力を守るが、ゲルマン人の侵入に抗しきれず、476年に消滅した。
この混乱期に、ローマ帝国の文化・文明を引き継ぎ、かろうじてその勢力を維持したのはローマ教会だった。

キリスト教の普及
Ambrosius

「ローマ帝国衰亡史」の著者ギボン(1737~94)は、ローマの宗教を以下のように言っている。
「ローマ社会にはありとあらゆる信仰がはびこっていたが、大衆はどれも本物だと思い、哲学者はどれもまやかしだと考え、また、政府の役人はどれも利用価値はあると見なしていた」と。

教養あるローマ人の多くは、初期キリスト教を下層階級の新興宗教の一つと蔑視していた。信仰の自由を保障していたローマ帝国ではあるが、皇帝ネロが、64年のローマの大火をキリスト教をスケープゴードにして断罪したように、往々にして新興宗教や秘密結社は迫害されていた。

それにも拘わらず、キリスト教は都市を中心に民衆の心を掴み普及し、帝政後期には国教になって行く。それは、真摯な教義にもあるが、徐々に、教養あるローマ貴族が聖職に就き、教理の理路を整え、組織化を行っていったことが大きい。教団への財政援助も大きく貢献していたことは言うまでもない。(国教になってからは、税制面での優遇が教会組織の強大化に拍車を掛けた)

ローマ・カソリック教会の組織強化と権威を高めた聖職者の一人、ミラノ司教・アンブロシウス(在位374~397)は、首都ローマの長官を務めた名門貴族で、人格、能力に優れた人ではあったが、司教に推薦された時は、キリスト教徒ではなかった。司教就任直前に入信し、全財産を教会に寄贈している。この様に、教会の第一人者である司教は、信仰の前に、人格や行政能力に長けた者が選ばれている。教会の組織強化と広がりには、このような人が大きく貢献しているのである。

キリスト教の普及は都市を中心に行われたが、その都市の第一人者は司教である。 中央集権化が進む過程で、ローマの司教が法王(教皇)として頂点に立つ事になるのだが、後に、その法王(教皇)は司教の中から選ばれることになるのである。 「カエサルのものはカエサルへ」と聖書にはあるが、信仰心のまるでない野心家の法王が少なからずいたことも、ローマ・カソリック教発展過程の風土にはあった。

もしキリスト教が500年前か、500年後に始まって、ローマ文明のよう地盤を持たなかったら、間違いなく地方の一宗教に留まっただろうと歴史家は言う。
ローマを支えたゲルマン出身者
Stilico
ローマ帝国没落の決定的事件は、410年のアラリック王率いる西ゴート族による首都ローマの占領である。 しかし、この事件よりはるか以前から、ゲルマン人は帝国内に農民として多数移り住んでいたし、平和裡に同盟部族としてまとまって帝国内に定住してもいた。そればかりか、ローマ軍の主力は、ゲルマン出身兵士に依存していた言っていい程に、ゲルマン人によって構成されていた。

4世紀には、ローマ軍の司令官として多くのゲルマン人が登用されていた。皇帝と姻戚関係を結んだゲルマン人の武将もいたし、コンスル職(皇帝もしばしば就任する共和政期以来の名目的最高の官職)に任命され、最高位にまで達したゲルマン人も少なくない。ローマの支配層の中枢部に、そして宮廷の奥深くに、ゲルマン人はすでに確固たる地位を築いていたのである。

ただ、これらのゲルマン人は、ローマ的教養をしっかり身につけ、いわば完全にローマ化された人たちであった。彼らは、輝かしい才能の持ち主であり、弁舌は爽やか、立居振舞も高貴であった。その中に、この時代の政治で重要な役割を演じた人物としてスティリコがいるが、ローマ貴族の代表格のシンマクスに、「あなたのところにローマの最良の徳はすべて移転してしまった」と最大賛辞を言わせている。

これは、政治の実権を皇帝に握られ、浪費、奢侈、美食、不正、悪徳に染まったローマの貴族・元老院には、軍隊を統率して、帝国の栄光を守る叡智と気概を持つ強力なリダーを生み出す力を失ってしまっていたからである。