「ウルビーノ」は、ルネッサンス期のヨーロッパで最も華やかな宮廷が開かれた町の一つで、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ公の時世(1444~82年)にその全盛期を迎え、華麗なルネサンス文化の華を咲かせた。ラファエロや建築家ブラマンテはこの地に生まれた。カスティリョーネがこの宮廷での経験を基に書いた「廷臣論」は、16世紀ルネッサンスの廷臣の手引書として、全ヨーロッパに広まった。
モンテフェルト公 「サン・マリーノ」の南、40kmと離れていない山岳地で、同じように何の産物も産業もないウルビーノの繁栄は、一人、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ公の力量によってもたらされたものである。
それは「傭兵」、今で言えば、「兵卒派遣業」である。
山間部の痩せた土地の侍・兵卒はハングリー精神の持ち主だけに気骨は備わっている。訓練によって強兵に育てあげた。また、農家の次男・三男には働き口がないから兵卒の募集にもこと欠かない。公自身、勇猛な部将として名声を高めていたが、若き頃学んだマントヴァ公の貴族学校で培った人脈をフルに利用して、イタリア各地の領主のみならずヨーロッパ各国の王室に傭兵を輸出する大ブローカーになったのである。
例えば、フランスのシャルル豪胆王に仕えたコーラ・ディ・モンフォルテ将軍も、ルイ12世の元帥になったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオもみなフェデリーコの育てた傭兵軍団出身であった。
中世以降、ヨーロッパの戦争の主力は「傭兵」によるものであるから、フェデリーコ公は、傭兵市場(中世に於ける最大軍需産業)を通じて巨万の富を築くことになったのである。 現在のヴァチカンの近衛兵はスイス人で占められていると言う。フェデリーコ公の調達したスイス人傭兵の名残であろう。
フェデリーコ公の日常生活は、武人らしく極めて質素なものだったが、文人・建築家・芸術家の招待、古典や名画の類の購入、有名な写筆家や細密画職人の雇用には、金に糸目を付けることはなかった。現在ヴァチカン図書館に残る多くの貴重な古文書、細密画で飾られた文書の出所の一つがフェデリーコ公の蔵書である。
いかに公が各地の貴重な古典・古文書を集めさせたかが想像される。かくして、文芸の保護者フェデリーコ公の宮廷にはルネッサンス期の巨匠が集まることになり、ウルビーノは田舎都市から一躍当時のイタリアの文化の一中心地となったのである。