イタリアワイン の 歴 史

ルネサンス

Lorenzo

フィレンツェ、ヴェネツィアなどイタリア都市国家の黄金時代である。イタリア諸都市の繁栄は、「貿易と金融」によって築かれたものである。

貿易」では、いわゆる東方貿易、つまり主としてアジアとの交易が、地中海を舞台として行われる以上、イタリアの地理的優位性は圧倒的だった。何しろイタリア半島は、地中海の真ん中にどんと張り出しているのだから。ジェノヴァやヴェネツィアの商船が、地中海を我が家の庭のように往来し、珍しい東方の物品を積んで帰れば、一挙に巨富を得ることも難しくはなかった。ヴェネツィアのサン・マルコ広場は、諸国の商人が集まる国際商業市場の観を呈していた。

金融」では、経済大国のフィレンツェやヴェネツィアの通貨がヨーロッパの国際通貨として、絶大な信用を誇ったから、銀行業が発達し巨万の富が蓄えられた。 メディチ家がフィレンツェを支配する経済的裏づけは、ローマ教皇庁の銀行業務の独占である。教皇庁には、西欧諸国から日夜巨額の金が集まってくる。それぞれの通貨を管理し換算し両替して手数料を取るのだから、儲からなければどうかしている。

このような経済的基盤が、ルネサンス文化の花を咲かせ、ダンテ、ボッカチオに始まり、ラファエッロ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ベルニーニなど幾多の芸術家が輩出し、イタリアを超一流の文化大国としたのである。 

この時代のイタリアの各自治都市(コムーネ)が共通に持つ政治状況がある。それは、世俗的影響力を強めた教皇と皇帝の緊張が、各都市の内部の教皇派皇帝派の対立抗争に拍車を掛けた。
そうした中から、多くの都市では、一握りの富裕者の中から、強力な指導者が現れ、政権を独占し、世襲する様になる。所謂、「君主制‐Signoria(シニョリーア)」といわれる制度である。典型的例が、メディチ家によって治められたフィレンツで、その君主がロレンツオ・デ・メディチある。

この教皇派と皇帝派の対立抗争は、都市の内部に留まらず、各都市間の抗争に進んで行くことは当然の成り行きで、こうした状態がアルプス以北の諸国のように絶対主義的な国家統一を阻み、近代前夜まで続くのがイタリアの特徴である。

また、強大な権力と財力を持ち世俗的影響力を強めたローマ法王を頂点とするローマ・カソリックの組織の腐敗と矛盾が、フランス王の介入を招き、教皇座のアヴィニョンの移転(1309年からの「アヴィニョンの幽閉」)や分裂を生み、ヨーロッパにおける宗教上の支配圏の半ばを失って行く「宗教改革」の嵐が吹き始める時代を迎える。 しかし、いぜんとしてローマに集められる金は膨大なもので、建築、彫刻、絵画などの芸術家への有力な注文主はローマ法王だった。

 

1454年のイタリア

 

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