Introduction ー イタリアワインの歴史

サルデーニア王国と統一イタリア

トリノを中心としてイタリア北西部を支配するサヴォイア公のヴィットリオ・アメデーオ2世は、1720年のスペイン継承戦争の際に、獲得したシチリア島をオーストリアに割譲する代償としてサルデーニャ島を領有し、サルデーニャ王国を成立させた。
従って、サルデーニャ王国と言うが、首都はトリノでその経済と文化の中心は後々までピエモンテである。

15世紀以降長い間、スペイン支配の圧政に下に置かれたサルデーニャが、その後進性から脱皮するのは、サヴォイア家の支配を受け、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とその首相・カヴールがイタリア統一に向けて活躍した19世紀に入ってからである。

1796年に始まるナポレオンのイタリア遠征は、自由・平等・友愛の標語を掲げ、イタリア半島の旧体制を粉砕、南北に共和国を一度は設立させた。 しかし、ナポレオン失脚後、ドイツ、オーストリア等欧州列強の介入を受け、旧体制を復活させた。
また、イタリア統一と独立を求める運動(秘密結社・炭焼党や青年イタリア同盟)もロマン主義的情熱に浮かれた若者の闘争で空を切るだけだった。イタリア統一を求めるものの王政派と共和派の闘争に明け暮れた。

1861年、王政派のサルデ-ニャ王・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世と、それに同調した義勇軍を率いるガリバルディが、苦心惨憺の末、武力によるイタリア統一に成功する。 明治維新の6年前に当たる。

イタリア中どこへ行ってもエマヌエーレとガリバルディの名前の付いた大通りや、銅像のない所はないと言っていい。この二人は国民の敬愛を集めた。 ここから現代イタリアは出発した。

 

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ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807~1882)
Garibaldi
イタリア統一運動で軍事指揮者として活躍したニース生まれの革命家。
最初、マッツィーニの「青年イタリア同盟」に参加するが、亡命を余儀なくされ、ブラジルに渡り12年間を過ごす。1848年イタリアの戻り、義勇軍を組織して独立戦争に参加する。60年に組織した、「千人隊」あるいは「赤シャツ隊」の名で知られる義勇軍の活躍は目覚しく、シチリア島のブルボン家の過酷な圧制に蜂起した島民と共に戦い、ブルボン家の軍隊を撃破し、パレルモに臨時の革命政府を樹立。全島の支配権を握った。

イタリア統一を目指すサルデーニャ国王・ビットリオ・エマヌエーレ2世が軍を率いてナポリ近くに到着したのを期に、ガリバルディはシチリアと南イタリアの征服地のすべてをエマヌエーレに献上して、サルデーニャ王国に併合させ、統一への流れを確実なものにした。
その後の指揮官としての活躍は目覚しく、弱きを助け、強きを挫くガルバルディ姿勢は多く民衆の名声を博した。晩年のガルバルディは、イタリア議会の下院議員に選出されたが、社会主義運動に共感をよせていた。
カヴール (Camillo Cavour 1810~1861) 
Cavour
サルデーニャ王・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の活躍の陰に、獅子奮迅の働きをしたサルデーニャ王国の宰相・カヴールがいた。

彼は共和派とは対照的な現実主義者で、サルデーニャ王国への併合を求める強いイタリア各地の声を背景に国論を統一し、教育の充実・工業化の推進・交通網の整備など一連の近代化政策を推進した。国内の産業増進と軍備の強化に力を注ぎ、草莽の志士の力など当てにせず、共和派の組織を切り崩した。
外交にも敏腕を発揮して王国の国際的な地位を高めた。トルコ戦争時には、はるばるクリミアまで国軍を派兵して汗も血も流し、同盟国の好意を得たし、ナポレオン3世と密約を結んで反オーストリア戦線に引き込むためには、王家発祥の地であるサヴォワとニースをフランスに割譲することも辞さなかった。

オーストリアと現実の戦争になったが、今度はフランスという強い味方がいるし、英国も応援してくれる。大した戦闘もなく1859年6月8日、フランスとピエモンテ連合軍はミラノ入城、オーストリア軍をヴェネトヘ撤退させた。