西ローマ帝国の滅亡後、テオドリクス率いるゲルマンの東ゴート族がイタリアを支配した。この東ゴート族と東ローマ帝國(ビザンチン帝國)との「ゴート戦争」と呼ばれる戦いが、ローマの文化と文明を徹底的に破壊した。
568年、新たに大挙して侵入して来たランゴバルド族がバーヴィアを首府とする「
ランゴバルド王国」を築き、ほぼ200年に渡り北イタリアを支配する。
ただし、イタリア北部は支配されるものの、中南部はラヴェンナに総督府を置いた
東ローマ帝国(ビザンチン)と教権を固めた
ローマ司教(教皇)によってかろうじて保たれ、イタリア半島は3分され形で対峙し勢力を争った。
かつてローマ帝国と一体をなしていた地中海世界の南半分は、新たに勃興した
イスラム勢力の支配を度々受け、シチリア島も、イベリア半島も地中海の制海権と共にイスラム勢力の掌撞するところとなってしまう。
このような混乱した政治状況で、経済は衰退した。
都市でも農村でも人口は減少し、生産は減退、風俗は野卑化した。帝国に張り巡らされたあの道路網(
ローマの道)は寸断され、競技場や劇場、浴場の跡は瓦礫の山と化し、かつては、200万の人口を擁して繁栄を誇ったローマの都も、住民は極端に減少してしまう。
社会の解体はすざましく、ラテン語は各地の方言に分解し、蛮族諸語と混交して、言語的な統一は完全に崩壊する。住む地域が違えば意思を通ずることは難しくなってしまった。文字通り文明の退化であった。
ガリアに定住したフランク族がその勢力を伸張し、ガリア全土をその勢力下に治めた。
775年、西欧統一を図ったそのフランク族の
カール大帝(フランス・カロリング朝)によって、ランコバルト王国は滅ぼされる。
カール大帝死後の843年、孫の代に西欧は3分割される(
ベルダン条約)。
ロタール領の北部は後に、東フランクの領有することになり、これが、地理的には現在の仏・独・伊3国の原型である。
以後、イタリアは常に東フランク(後の神聖ローマ帝国)の支配を受けることになる。
神聖ローマ皇帝の権力は弱かったから、実質的には、公侯伯と言った領主の支配の下に置かれ、イタリアは無数の領地に細分された。
これが、政治・経済的に地域的な小国に分立したイタリアの状態を19世紀まで続けさせる基になるのであるが、領主はそれぞれ自分の恣意を法として領民に押し付けた。大多数の農民は自由の無い貧しい生活をせざるをえなかった。