紀元79年のヴェスヴィオス火山の大噴火で埋もれていた「ポンペイの廃墟」には、酒場の跡が200程はっきり残っている。
しかも、700mに満たない街並みに、8軒もの酒場が並んでいるところもある。壁に書かれた値段表まで読み取れるものもあって、スナック・バーのカウンターのような酒場で、ワインを楽しむ古代ローマの庶民の姿をはっきり思い描くことが出来る。
ポンペイ郊外では、31の大邸宅が発見され、その内の29がワイン生産者の邸宅であったことが分かっている。周りを葡萄畑が取り囲み、地下の貯蔵庫には熟成しつつあるワインのアンフォーラが一杯であった。いわば、ボルドーのシャトーのようなものである。
ポンペイ・ワイン商の刻印のあるアンフォーラの破片が、イタリアはおろか西ヨーロッパの隅々で大量に発見されている。そのアンフォーラの刻印からも、マルクス・ポルキウスが有力なワイン商人であることが解っている。彼はまた、ポンペイの劇場や競技場の建設を司った役人でもあったポンペイの名士である。
ポンペイはローマ帝国のボルドーのようなもので、ローマ帝国のワイン交易の中心地であったのである。
ドミティアヌス帝の勅令
92年、ドミティアヌス帝は、イタリアに、現にあるもの以外新しい葡萄園をつくることを禁じると共に、 ローマ帝国の海外属州にある葡萄の木の半数を引き抜くことを命じた。
これは、属州、特にガリア(フランス)に於ける葡萄栽培が進み、安いワインが輸入されるようになったため、イタリア国内のワイン産業を属州との競争から守り、国内価格をつり上げておくための方策だったようである。
しかし、属州がこの勅令に従ったと言う確かな証拠は全く見つかっていない。
この勅令は、その後約200年間効力をもち続けたが、280年、プロブス帝によって廃止された。この時期に、ガリアの主要な葡萄園地帯の大部分が、始まったか或いは、着実な発展を遂げた。