バレルモの宮廷には、一種の国際的性格を持つ文化が、ルネッサンスに先立つ200年前に、形成された。
国王自身が武術は言うに及ばず、ギリシャ語やアラビア語はもとより数ヵ国語を操る語学の天才で、歴史、哲学、神学、天文学、数学、植物学をものにし、詩作や楽器演奏をも習得していた偉才であった。教養ある優雅な会話は、宮廷に集まる知識人や芸術家を魅了した。
そこにプロヴァンス出身の詩人たちが集まり、やがてシチリア語による詩が作られるようになる。これがイタリアにおける俗語文学(ダンテの「神曲」やボッカチオの「デカメロン」)の発端であると言われる。
彼自身は科学、特に数学が好きだったようで、それを象徴するのが、ブーリア州の<DOC・Castel del Monte(カステル・デル・モンテ)>のランドマーク的存在の城であろう。
8角形の塔で構成された幾何学的フォルムは、近代建築かと見まごう異彩を放つイタリア・ゴシック建築を設計・建設したのである。
また、当時の聖職者による文化独占を打破し、世俗の知識人を結集・育成を図るべく、ナポリに大学を新設した(1224年)。この時代教皇の影響の強かったポローニャ大学に対抗させようとしたのである。
ドイツに本拠地を持つ「神聖ローマ帝国」とシチリア及び南イタリアの「ノルマン・イタリア王国」を治め、イタリアに強大な統一専制国家を築いていこうとするフリードリヒの前に大きく立ちはだかったのは、当然のことだが、教皇庁と自治都市(コムーネ)であった。
教皇庁は、西欧全域に広がるローマ・カトリック教会の中心機関だから、社会・政治的影響力を維持しようとすれば世俗権力が分散していることが望ましい。強大な統一国家が誕生して、ビザンチンのように国家機構の一部として従属されてしまうことは最も避けねばならないことである。自治都市(コムーネ)もまた強大な帝権の下で、自由な商業活動が制約を受ける国家的統一には頑強に抵抗したのである。
次の教皇グレゴリウス9世は、十字軍遠征とフリードリヒがホノリウス3世に約束した事項を全く実行に移さないことを非難し、彼を破門した(1227年)。
フリードリヒは、これに対して教皇の世俗的野心を告発し、シチリアの聖職者たちが教皇の聖務停止令を無視するように要求し対抗した。そして、破門されたままパレスティナへ向けて出帆し、卓越した政治的手腕を発揮し、イエルサレムを回復するのに成功し、更にイエルサレム国王に就き、破門を解消させた。