政治的に言えば、16世紀以降のイタリアは、軍事的には無力で、強力な統一国家になったフランス、スペイン、オーストリアの支配干渉を、事ある度に受けることになる。
1494年、フランスのシャルル8世が、ナポリ王国と対立するミラノ公の要請により、イタリアに侵入する。その際、シヤルル8世は、かつてアンジュ一家の祖先がナポリと南イタリアの大半を統治していたことから、ナポリ王国の継承権を主張して自らのイタリア介入を正当化した。「イタリア戦争」と歴史で言われるものの始まりである。
以後、フランスとスペインのイタリア支配をめぐる戦いは度々繰り返され、1559年、「力トー・カンフレジの和約」により、フランスがイタリアへの権利を放棄することで終結する。
その後のイタリアは、スペイン支配を受け、1701年の「スペインの王位継承戦争」まで続く。
イタリアで外国勢力の支配を受けていないのは事実上ヴェネツィアと法王領だけであった。
スペインは、イタリア各邦に、土着人の身分制的な議会を一応認めてはいたが、 それぞれ総督を配置し、スペイン本国本位の支配を行った。それはイタリア人の間の社会的対立を巧みに利用した搾取的な植民地支配であったので、全盛期スペインの繁栄のおこぼれにあずかった少数の例外を除いて、イタリア各邦は、衰退の一路をたどるよりほかなかった。
特に、封建領主制がなお固く支配的であった南イタリアにおいては、一層悪かった。久しい虐政、国家や封建貴族の法外な搾取、度々の飢饉、疫病の流行、それらに伴う社会秩序の破綻などから追いたてられた民衆は、しばしば飢えに迫られて絶望的な反抗に走った。
20世紀まで残る南イタリアの後進性は、このスペイン支配の影響と言える。